松本重太郎翁略歴

嘉永5年、年少にして郷里を出て、京都、大阪の商家に勤め、明治3年9月、23歳にして独立し、心斎橋通平野町4丁目に洋反物雑貨商を開き、丹重と称号する。

 

松本重太郎:抄

百三十銀行 明治11年創立、資本金25万円、高麗橋3丁目。同13年頭取就任、関西財界の一勢力となる。
大阪共立銀行 明治20年創立、(在庫貨物抵当制創始)後、浪花銀行に合併。
大阪興業銀行 石炭取引機関、明治26年創立、頭取就任後、百三十銀行に合併。
日本貯蓄銀行 明治27年創立。
明治銀行(名古屋) 明治29年創立、資本金300万円、翌年頭取となる。
阪堺鉄道(現 南海電気鉄道) 明治17年6月創立、資本金25万円。創立当初より社長。同鉄道は我が国最初の私設鉄道である。
山陽鉄道 明治19年創立発起人となり、同25年4月中上川彦次郎氏に次いで2代目社長となる。
紀泉鉄道 明治26年11月発起人、後、南海鉄道に合併。
浪花鉄道(片町〜四条畷間) 明治26年創立、同32年関西鉄道と合併。
阪鶴鉄道 明治26年創立。
豊州鉄道(大分県行橋〜柳ヶ浦間) 明治26年社長、後、九州鉄道と合併。
七尾鉄道(能登半島縦貫鉄道) 明治29年社長となる。
大阪運河会社 明治30年創立、安治、尻無両川を連絡。
大阪紡績(現 東洋紡) 明治15年創立、資本金28万円、工場三軒家。後、大阪織布合併、同21年1月より同31年まで社長。
堂島紡績所 明治17年10月買収、後、日本紡績に合併。
大阪織布会社 明治20年創立、後、大阪紡績に合併。
日本紡績会社 明治29年創立、資本金50万円、社長となる。
京都製糸 明治11年創立、対米輸出を図る。
毛斯綸紡績 明治28年創立、資本金100万円、同29年社長となる。
大阪麦酒(現 アサヒビール) 明治20年12月創立、同25年5月「朝日ビール」発売好評、工場は吹田。
日本精糖 明治28年創立、資本金150万円。工場は都島、社長となる。
日本火災保険 明治25年5月創立。
日本教育生命保険 明治29年10月創立、社長となる。
明治炭鉱 福岡県嘉穂郡煩田町に創立、後、安川敬一郎氏に譲渡。
明治生命保険 明治14年7月創立。
大阪アルカリ 明治21年創立。
大阪毎日新聞社(現 毎日新聞社) 明治22年株式会社(資本金5万円)組織とするに際し参画し、出資者を代表し相談役となる。
明治11年9月 西南戦争の際、大阪陸軍臨時病院入院患者に白木綿を寄付したことを賞せられ、木杯一箇を受ける。
明治15年9月 日本銀行創立事務御用掛を申し付けられる。
明治18年11月 京都府丹後町、間人小学校建築費として金800円寄付したことを賞せられ、銀杯一箇を受ける。
明治20年2月 昭憲皇太后住吉神社に行啓された際、阪堺鉄道にご乗車なされたことにより社長の資格に対して銅花瓶一対を賜る。
明治23年3月 防海の事業に賛成して金5千円を献納したことにより黄じゅ奉章を賜る。
明治24年4月 大阪商業会議所会員に当選。
明治26年4月 大阪築港取調相談役を嘱託される。
明治28年4月 広島大本営において、昭憲皇太后陛下より山陽鉄道会社社長の資格に対し白羽二重一疋を賜る。
明治29年9月 大阪府第2区衆議院議員に当選。
明治30年12月 衆議院議員在職中、大阪築港の急務を唱え、国庫補助の議を決議させ、築港起工式を挙行させた功労により、大阪府の感謝状を受ける。
明治31年11月 明治天皇摂河泉の野において特別大演習挙行されたことに際し、南海鉄道社長の資格を以って、天王寺停車場において拝謁し、なお大本営において菊御紋章付三重銀盃を賜る。
明治32年4月 大阪商業会議所特別会員に当選。
明治32年10月 大阪同盟銀行委員長に推薦される。
明治33年1月 帝国鉄道協会大阪支部委員長に推薦される。
明治33年1月 日本興業銀行設立委員を申し付けられる。
明治34年10月 関西法立学校(現 関西大学)拡張を賛し、率先して資金を募り、西区江戸堀に一大校舎を建設する。
明治35年9月 大阪銀行集会所創始以来、或いは、委員としての功労に対し記念品を贈られる。
明治30年 生来初めての病気(脳病)にかかり半年余り治療に専念し、更に高野山常喜院に参籠し悟道を楽しみ、心身を養い、快適となるこれを記念し院内に持仏堂を建立し、両親の菩提を弔う。
明治32年 5月、外遊の途に上り、欧州各国から米国に廻り、同年11月帰国その間、スコットランドにおいて世界的富豪カーネギー氏と会談したことは、最も感慨深き洋行中の白眉である。
明治37年 6月、百三十銀行破綻。日露戦争が産業経済界に及ぼした大打撃による直接の原因は対支輸出の杜絶から日本紡績の社業中止となり、その関係銀行であった百三十銀行にしわ寄せとなったものである。この結果、翁は潔く全私財を提供し、すべて整理委員に一任し、従来関係していた諸事業と絶縁し、永遠に実業界を引退された。
 

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