10歳で丁稚奉公に出て以来、幕末から明治にかけての大阪で仕事に打ち込み、働き続けてきた松本重太郎。銀行、繊維鉄道、ビール会社など次々と事業を拡大し関西一の財界人にのし上がる。明治初期の実業界を駆け抜けた近代日本の実業家。

西の渋沢栄一といわれた「間人」生まれの英雄

 


松本重太郎:抄

生前いかに一世を風靡した人物といえども、時の流れによりいつかは忘れ去られるもの。

しかし、私たちは時には立ち止まり、郷土の先進の残した栄光の足跡を振り返り、何かを学ぶことも必要である。間人(丹後町)が生んだ松本重太郎もその中の一人である。今では遠い昔の語り草となり、地元ですらその名を聞くことは滅多にない。

明治の頃、「東の”渋沢”西の”松本”」と実業界で並び称された松本重太郎は、1844年間人村古間の農業松岡亀右ェ門の三男亀蔵として生まれた。

10歳で京都の呉服屋「菱屋」に奉公に上がる。三年で大阪に出て「錦屋」に入った。同じ商人になるならスケールの大きい大阪の土地柄の将来性を買ったという理由からである。

25歳で独立し名前を松本重太郎に改め「丹重」商店を開く。以後着実に商売を広げ、その事業熱は百三十銀行を創設し、ついで南海鉄道(南海電鉄)の経営に乗り出した。

他に、山陽鉄道(山陽本線)、阪鶴鉄道(福知山線)などの鉄道事業に尽力。また、ビール会社(アサヒ)、日本製糖、日本紡績、大阪紡績(東洋紡)と枚挙にいとまがないほど事業を手がけた。

こうして大阪を舞台に、日本の商工業発展のために活躍した。関東の”渋沢”に対し、西の”松本”といわれる理由も当然のことである。

晩年近く日露戦争が勃発し、日本紡績が休業に追い込まれた。平和産業に対しての戦時体制の企業圧迫であったのだろう。これの融資元の百三十銀行の倒産を救うため、松本重太郎は私財を投げ出して他への連鎖倒産を防がねばならなかった。

結果、彼は実業界から退いていったのである。

大正2年(1913)病没。享年70歳

松本重太郎翁 略歴

 

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